真宗十派

親鸞聖人は、主著『教行信証』にて「真実の教は、浄土真宗である」と述べています。
現在までに、浄土真宗を信奉する教団は、歴史的な事情から分流し、伝統的に真宗十派にと呼称されています。
その十派は、唯稱寺の所属する真宗大谷派(東本願寺)をはじめ、本願寺派(西本願寺)・高田派(専修寺)・佛光寺派(佛光寺)・興正派(興正寺)・木辺派(錦織寺)・出雲路派(毫摂寺)・誠照寺派(誠照寺)・三門徒派(専照寺)・山元派(證誠寺)となります。分流してはいますが、その源はすべて親鸞聖人に帰一し、聖人を宗祖と仰ぐ教団です。

真宗大谷派と真宗本廟(東本願寺)

真宗大谷派の本山は「真宗本廟(東本願寺)」であり、宗祖・親鸞聖人の御真影を安置している御影堂は世界最大級の木造建築です。真宗本廟(東本願寺)は、当派の宗祖である親鸞聖人(1173~1262)の門弟らが宗祖の遺骨を大谷の地から吉水の北に移し、廟堂を建てて宗祖の影像を安置したことを起源とし、それ以来、真宗本廟は、浄土真宗の教えを聞法する根本道場として護持されています。

3代目の覚如上人(1270~1351)の頃、真宗本廟は「本願寺」の寺号を名のるようになり、本尊を安置する本堂(現在の阿弥陀堂)が並立するようになりました。そのため、現在の本山は、親鸞聖人の御真影を安置する「御影堂」と本尊を安置する「阿弥陀堂」の両堂形式となっています。

戦国乱世の時代に、8代目の蓮如上人(1415~1499)は、親鸞聖人の教えを確かめつつひろく民衆に教えをひろめ、本願寺教団をつくりあげていきます。このため、当派では蓮如上人を「真宗再興の上人(中興の祖)」と呼んでいます。

東西の分派

京都東山にあった大谷本願寺は比叡山との関係で一時退転し、山科本願寺を経て、さらにその後に、大坂(石山本願寺)へと移転していきます。しかし、11代目の顕如上人(1543~1592)の時代に、織田信長との戦い(石山合戦)に敗れ、大坂も退去することになります。

この後、天正13年(1585)本願寺は、豊臣秀吉により大坂天満に再興され、さらに天正19年(1591)京都堀川七条に本願寺(現在の西本願寺:浄土真宗本願寺派)は移転しました。顕如上人没後、一度は長男であった教如上人が本願寺を継ぐも、秀吉より隠退処分をうけ、弟(三男)の准如上人が継職しました。

しかし、その後も長男であった教如上人は活動を続け、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いを経て、慶長7年(1602)京都烏丸六条・七条間の地を徳川家康から寄進されます。慶長8年(1603)に阿弥陀堂を建立、慶長9年(1604)御影堂を建立し、現在の真宗大谷派の本山である真宗本廟(東本願寺)が創立されました。

真宗本廟は、その後四度にわたって焼失しており、現在の堂宇は明治28年(1895)に再建されたものです。